「三多摩」
でGoogle画像検索すると私が作った地図がトップページに表示される(30位くらい)。作ったと言っても現東京都(=東京市+三多摩)の白地図と旧神奈川県(=現神奈川県+三多摩)の古地図を合成しただけなんだけど。ともかく三多摩の歴史的取り扱いがよく分かると評判になっているらしい。そんな三多摩には一家言ある私である。
前回のジプシー・トシ的ブラタモリでは、「甲州街道をゆく」と題して三多摩南部を東西に貫く甲州街道の今をお伝えした。記事の最後に予告しておいたように、今回は三多摩北部を横断する青梅街道を紹介したい。また青梅街道と平行に走る五日市街道、青梅街道と五日市街道を南北につなぐ府中街道も併せてレポートする。
三多摩北部(北多摩郡)に現在どのような市制が敷かれているか表したのが下の白地図である。23区の隣に多くの小さな市があり、それらがどのような位置関係にあるかは東京都で小学校時代を過ごした人間でないと覚えていない。東京の小学校高学年では「私たちのふるさと東京」みたいな社会科の教科書副読本を使って三多摩のすべての市を勉強する、覚える、忘れる、なかったことにするw
ましてや東京以外の出身者は三多摩にどのような市があるか知らない。
「東村山、知ってます! 志村けんの出身地でしょ?」
「日野、知ってるで。トントントントン、ヒノノニトンw」
「調布に田園調布があるけんね? 田園調布に調布基地あるんじゃろ?」
「西東京? 聞いたことねぇっぺ。それ、東京都の真ん中でねっか?」
「立川? 立川談志? 『たてかわ』って読むだっちゃ?」
「武蔵野ってムサビ、武蔵野美大があるずら? えっ? 小平にある?」
「東久留米? 久留米は九州の町たい。やめてほしかー。」
「多摩市? 多摩区? タマタマ、タマタマ、下ネタかっ!」
とにかく東京人+地方人=全日本人にとって23区を除いた東京、すなわち三多摩は未開の地である。この記事では三多摩北部、特に上の白地図で下線をつけた6市-武蔵村山市・東大和市・東村山市・小平市・国分寺市・立川市-の雰囲気を写真でざっと紹介したい。市と市をつなぐのは昔からの街道とそのニューバージョン(バイパス)であるから、写真はいきおい街道とバイパスのものとなる。今回は愛車1号であるロードバイクでバイパスを時速40kmでぶっ飛ばす…のではなく、GWのうららかな日差しの中、愛車2号であるマウンテンバイクで街道をのったりくったりブラタモリしてみる。
全行程を詳細な地図で示す。左上赤丸で示した武蔵村山の始点Aから青梅街道を東進して東大和へ。そのまままっすぐ田舎道を通って東村山へ。そこから府中街道を南下して小平・国分寺へ。西進する五日市街道やその脇道やバイパスを通って立川へ。最後にバイパスを北上して立川から武蔵村山の終点Bに戻る。
地図に書かれた文字が小さくて申し訳ないが、地図を画像ファイルとしてダウンロード保存してからファイルを開いて拡大すれば大きく見えるはずである。拡大すれば大きく見えるのは当たり前であるw アメーバブログ上ではこの当たり前の操作ができないのでパソコンやマック上で拡大して頂こう。しかし地図を見ないで、あるいはカーナビに頼らないで、「なんとなーくこっちに行けばいっかなー」という土地勘を養いながら進むことが目的だから、地図の詳細にこだわり過ぎないで頂きたい。土地勘を養うのに必要なのは、多摩湖や複雑に走る西武線などのランドマークの存在とその位置関係を把握することである。
いつものように自宅の「どこでもドア」を開けると、そこは北に多摩湖を臨む青梅街道の近くだった。左折すれば瑞穂町、右折すれば東大和市。両者の間に位置するここは武蔵村山市である。
青梅街道はまったくの旧の街道である。三多摩の大動脈は今や「新」青梅街道に取って替わられている。旧の街道の脇にはまばらに旧家(元地主邸)が存在する。
武蔵村山が農業開発されたのは江戸時代なかごろ。つまりこの家はおそらく300年前からここにあったと思われる。蔵の前に咲くハナミズキもまた300年前からここにあった…というのは嘘で、ハナミズキがアメリカから日本にやってきたのは1915年。去年、2015年はハナミズキ日本伝来100年だった。そんなハナミズキの寿命もまた100年。「あなたと好きな人が100年続きますように」という歌の題名を「ハナミズキ」と呼ぶことを私は知っている。そんなこと、みんな知ってるよーw
青梅街道を東に進むと出たっ! ファッションセンターしまむら。田舎JKの109である。田舎ヤンキー娘の溜まり場である。田舎の元ヤンママの情報交換所である。かっこいい現役OLさんが決して勝負服を見つけることができない店である。現役を退いた元OL、すなわち年金生活者が集う社交場である。
写真左手の山の上に多摩湖がある。山の斜面にある墓は江戸時代からのものであろう。その隣、崖の斜面に建つ住宅は江戸時代からのものではないだろう(当たり前だよー)。いやいや、旧家は街道沿いに建っており、新興住宅は崖っぷちに建っているということが言いたいのだ。
やがて青梅街道は曲がりくねった田舎道になる。旧家同様、昔からの郵便局もまた街道沿いにあり、これは東大和芋窪郵便局である。
私のブログの熱心な読者諸氏なら覚えておいでかも知れないが、
ららぽーと立川立飛の記事でららぽーとへのアクセスに「芋窪」街道が登場した。立川北部でモノレールが走る道路である。ららぽーと立川立飛から芋窪街道を5kmほど北上した終点がここ芋窪である。というか芋窪を始点とする街道だから芋窪街道。一点の曇りもない。
芋窪では村の子供たちが元気に走り回る。おいおい、今や東大和「市」であって「村」ではない。いや、農村住民の習慣や文化は何百年経ってもほとんど変わらないものだから、走り回っているのはやっぱり村の子供たちだと言えよう。何百年も変わらない田舎、毎年目まぐるしく変わる都会。人々の気質や価値観は都会と田舎でまったく違っている。シティーボーイの私は田舎が嫌いである。
青梅街道は東大和の中心で南に折れて小平に抜けるのだが、アマノジャクな私は青梅街道の延長線上にある道を直進した。そう、素直な私は直進を選んだのだ。私はアマノジャクなのか素直なのかどっちなのだろうか?
道路沿いのハナミズキが美しい。
やがて道路は高架線路にぶつかり、ここは武蔵大和駅近くであることが分かる。線路は西武多摩湖線である。
駅近くを自転車で通り過ぎると道沿いに廻田(めぐりた)金山神社がある。創建年は明らかでないが社殿に貞和(じょうわ)7年(1351年)の記があるらしい。江戸時代なかばどころではない、今から650年以上前の室町時代(南北朝時代)からこの神社は村の鎮守だったのである。
と、ここで年号の貞和をネットで調べてみると、貞和は1345年10月21日(貞和元年)から1350年2月27日(貞和6年)となっている。おかしい。貞和7年は存在せず、1350年2月28日からは観応元年、1351年は観応2年である。何かが間違っている。ネット情報が間違いないとしたら、元号が貞和から観応に変わったことが京都から遠く離れたこの村には伝わっていなかったのかも知れない。田舎者だからしょうがない。
この田舎者の住むのが東村山である。道はやがて東村山駅に至る。
「おーい、志村~! うしろ、うしろ!」
看板の「たましん」とは、多摩地域に根差した中小企業金融機関、おらが銀行、多摩信用金庫の愛称である。
大いなる田舎、東村山は今やバカにしたものではない。東村山駅は西武新宿線上りで新宿に出ることができる圧倒的に便利な駅である。新宿に出られることが大威張りというのが田舎の証明かも知れないが。西武新宿線下りは所沢、狭山、(本)川越へと通じる。また西武西武園線で西武園ゆうえんちに行くことができる。「せーぶ、せーぶ」ってうるさいんだから。
東村山駅からは西武国分寺線を南下することで国分寺駅に行き、JR中央線乗り換えで新宿に出ることができる。東村山の人間はどうやっても新宿に出たいようである。「単線でも良いからとにかく東村山から出してくれー。新宿に出してくれー!」という心の叫びが聞こえるようである。
東村山から今や西武国分寺線を使って国分寺に行くことができるが、昔は歩いて国分寺に行ったものである。自転車に乗っている私は電車内に自転車を持ち込むわけにもいかず、昔ながらの手段で南下作戦を試みる。昔の徒歩(かち)と今チャリの私がともに利用するのが府中街道である。
府中街道はやがて西武新宿線を横切り、新青梅街道と交差する。このバイパスは物流の猛者たちが通る三多摩の大動脈である。看板によると、大動脈の「血液」が止まるのは大震災等発生時車両通行禁止だけである。
府中街道を南下し続けるとやがて道路右手(西側)に鬱蒼とした森が現れる。府中街道と西武国分寺線に挟まれたこの森にあるのは八坂神社であり、その創建は1270~1280年ごろ、すなわち鎌倉時代にまで遡る。
関西人が八坂神社と聞くと京都祇園の八坂神社を思い浮かべるが、さて東京の人間はどうなのだろう。京都の八坂神社は656年、すなわち飛鳥時代の創建だから、東村山の八坂神社の負けである。いや、勝ち負けなどと言わず、東村山八坂神社は京都祇園八坂神社ののれん分けみたいなもの、神道用語で言うところの分霊(ぶんれい、わけみたま)かも知れない。あるいは東村山に元からあった神社に京都八坂神社の御霊を移した分祀(ぶんし)かも知れない。
などと思って調べてみると、野口村天王社という村の鎮守を明治2年になって八坂神社と改称したことが分かった。なんだ、単なるまねっ子かい。いや、もしかすると西武ゆうえんち近くのトトロの森八国山(はちこくやま)緑地と同様、八坂は8つの国ー上野(こうずけ)、下野(しもつけ)、常盤(ひたち)、安房(あわ)、相模、駿河、信濃、甲斐ーに通じる坂という意味かも知れない。そうだとすると壮大なネーミングである。
この東村山の八坂神社、テレビ業界のその筋には有名だそうである。神社の鬱蒼とした森には幽霊が出る。京都八坂神社の祟りと決まったわけではないが出る。信じるか信じないか、それはあなた次第です。
府中街道はやがて西武多摩湖線と交わり、そこにある駅はその名もズバリ、八坂である。
西武多摩湖線を横切ったと思ったら、すぐさま今度は西武拝島線を横切る。いやはや何とも忙しい。というか、このあたり西武線入り乱れ過ぎ。西武新宿線、西武国分寺線、西武多摩湖線、西武拝島線が時に東西に、時に南北に走る。住民は自分の好みに従ってあちこちに行けて便利だということだが、慣れるまではカオスである。
西武拝島線の高架の下を通り過ぎるといきなり巨大企業が現れる。その名はBRIDGESTONEこと、ブリヂストン。
ブリジストンではなくてブリヂストン。BRIDGE-STONEのBRIDGEの最後の音を「ヂ」と書く。日本語で「ジ」と書くと英語の「ズィ」を意味してしまい、BREEZYの最後の音になってしまう。あ、BREEZYっていう単語は形容詞で「そよ風が吹いていて爽やかな」などの意味。BREEZYは誰も知らなくても、BREEZEは誰でも知っている。ブリーズは「そよ風」。広瀬すずがコマーシャルしているシー・ブリーズは「海風」「海からのそよ風」である。嗚呼、青春の汗臭さを消すシー・ブリーズのに・ほ・ひ。
「BRIDGE-STONE」を日本語訳すると「橋-石」で、ブリヂストン創業者が石橋(正二郎)氏というのは超有名な話。また地元ではブリヂストンのことを「BS」と略して呼ぶのはそこそこ有名な話。ブリヂストンの敷地を貫く公道の名前は「BS中央通り」だったりする。
ともかくブリヂストンの近くでは府中街道の道幅も広く、さまざまな店が繁盛している。ここはブリヂストンの企業城下町である。
「ここはブリヂストン」と言うときのここはどこ?(私は誰?) はい、ここは小平。八坂駅を通過したあたりが東村山市と小平市の市境だった。
ブリヂストンを越えて府中街道を南下し続けるとやがて道はせまくなり、青梅街道に出くわす。青梅街道とは東大和で別れて以来の再会である。
こうして府中街道×青梅街道という交通の要所(前掲の地図右中央の赤丸)にある私の自宅に到着した。行程は道半ばだが、自宅から武蔵村山までを紹介するには紙幅が尽きた。次の記事とさせて頂く。
あー、すいませーん。ウソでしたー。この立派な門構えは私の自宅ではない。交通の要所にある素封家の豪邸である。ともかく次の記事では、地図右中央の赤丸(素封家の豪邸)から左上の赤丸(本記事でスタートした青梅街道の一角)までの街道をゆく。請うご期待!
↧
三多摩の歴史を知り武蔵村山から小平の町を感じる ~青梅街道・府中街道・五日市街道をゆく 1/2~
↧